【室長の徒然コラム】写真をプリントするという選択肢

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「写真の残しかた教室」などを主宰しておきながら、写真は何でもかんでもプリントすればよし、とは私はまったくもって思っていない。
よく、写真をプリントしましょう、プリントしてこそ上達します、写真はプリントしてなんぼです、という正義をふりかざしている人を見かけるが、正直そこまで賛同できない。写真の歴史、メーカーの思惑などが複雑に絡み合い、“写真とはかくあるべき”、といういくつかの常識が写真業界には存在している。賛否両論どころかブーイングさえ来そうだが、ここであえて私は言う。
「写真はプリントすべき」というのはもはや呪縛だと思う。
プリントが悪いのではない。プリントするだけで写真が全て昇華されるような考え方に疑問を抱くのだ。そもそも仮想通貨や電子マネーすらも登場しているこのペーパーレスな時代に、何でもかんでもプリントすべきだ!という考え方自体が時代遅れなのかもしれない。

もともと写真はカメラオブスキュラで映し出された映像を絵画用の下絵に使うところからスタートした。その後は金属板の写真が発明され、その後フィルムからの紙焼きが登場した。デジタルになってからのそれに比べると、その歴史は長い。”写真=紙”である時代がずっと続いていたのだ。それがデジタルカメラやスマートフォンの登場で、“写真=データ”という新しい常識が生まれた。

写真をプリントしたことがない、という人は圧倒的に多いだろう。作品として写真を撮っていなくても、今の時代、スマホさえ持っていればどこでも手軽に写真を撮ることができる。SNSの普及で、撮った写真は簡単に発信・共有することができる。人に自分の撮った写真を見せる、という行為のスピードが、紙焼きしかなかった時代に比べて、爆発的に早くなった。

でも、知ってほしい。“写真をプリントする選択肢”があることを。
紙となって質量が生まれた写真は、単純にモノとしての愛着が圧倒的に増す。PCのモニターやスマホの画面で見ている写真はただのデータにすぎないが、それもまた写真と呼べるだろう。けれどもやはり、私たちは生きている人間であり、それぞれ個人が体を有している。同じように、質量、すなわち体を持った写真は、見られるということだけでなく、手に取って触る、部屋に飾ってながめる、という、データ写真とは異なる物理的な側面で楽しむ要素が生まれる。

だから、何でもかんでもプリントするべきだ!とは言わないけれども、スマホで撮ってインスタにUPする、それだけが写真だと思っている人がいたら、それはもったいないなあと思う。
写真をモノとして愛おしく思える選択肢を知らないということだから。

だいぶ減ってきているが、あなたの住む町にも写真屋さんがあるだろう。写真屋さんに行けば、銀塩プリントしてもらえる。自分でプリンターを買って、色んな紙にプリントしてみるのもよいだろう。もっとこだわってみたかったら、フィルムカメラで撮って、自分で現像・プリントしてみてもよい。手焼きのプリントはモノとして存在する写真としてはプレミアクラスだ。今は、検索すればいくつか貸し暗室が存在する。自分で暗室の道具や材料をそろえなくても体験ができる。

結局、写真はプリントすべき、という結論になってしまったかもしれない。いや、ちょっと違うか。まあ、そこら辺はどうでもいい。要するに言いたいのは、“写真をプリントする選択肢”を知ってほしいなあ、ということだ。

 


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